まちづくりコラム
 
トップページ > まちづくりコラム > コラムNO.37
 

脱まちづくり根性論 持続可能な仕組みづくりへ

大阪市立大学大学院
工学研究科都市系専攻
准教授 嘉名光市

まちづくりに定着する根性論

  私の年代(いまどきの言葉ではアラフォー世代)は、子どもの頃スポーツ根性モノのアニメやドラマが花盛りで、こうしたテレビ番組に夢中になった。代表例は星飛雄馬と星一徹の登場する巨人の星。鬼コーチの想像を絶する鍛錬の果てに、主人公は成長してスーパーヒーローに育っていくという筋書きだ。こうしたスポ根ものは、鬼コーチの指導が壮絶で、練習は恐ろしいほど厳しいのが共通点だ。また、鬼コーチの命令は選手には絶対で、文句などもってのほか、質問さえ許されないのが不文律だ。そして、その苦しい練習の果てには輝かしい栄光が待ち受け、最後には選手とコーチが共に涙するのである。
そんなテレビ番組が流行した世代である。だから、コーチの厳しい練習に耐え抜くことこそが最も重要で、それがスポーツマンシップの原点だと思っていた。私も小学生の頃少年野球のチームに入り、野球少年をやっていた。この練習はとても厳しかったのがいまでも記憶に残る。スポ根ドラマのような鬼コーチもいた。もちろん、鬼コーチの指導には、合理的なスポーツ理論に裏打ちされた指導がなかったわけではないと思う。確かに、こうすれば巧くなれるというような技術論もなかったわけではない。しかし、練習メニューの意味や目的の理解などよりも、苦しい練習をただひたすらこなすことを要求されたのも事実だ。当時のスポーツ教員はまだまだ根性論、スピリッツ論が主流だった。
よく昔、足腰の鍛錬としてウサギ飛びを経験した人は多いだろう。これがきつかった。私もダイヤモンドを何周もさせられた記憶がある。しかし、このウサギ飛びは現代のスポーツ理論では体によくないとされ、近年ではほとんどその姿をみることはなくなった。ウサギ飛び修行は筋力のトレーニングというよりは、苦しい修行を乗り越える精神力にそのウエイトが置かれていたように思う。また、特に記憶に残るのは、練習中に水を飲んではいけないというルールだ。今でこそ運動には適度な水分摂取が必要で、そのことを咎める人はいないだろうが、当時はコーチがよしというまでは水を絶対に口にしてはいけなかった。そこに合理的な理由があるかどうかよりも、根性で乗り越えることが大事にされる価値観がそこにはあった。
いきなり話が横にそれてしまったが、まちづくりを成功させる要因としてたびたびとりあげられるものに、「根性論」がある。まちづくりに情熱を持って取り組むキーパーソンがいてこそ、まちづくりは成功に至るというものだ。苦しさやつらさを、根性で乗り越えた先に、輝かしい成果が待ち受けているという筋書きだ。まさにスポ根モノのストーリーと同じだ。確かに、まちづくりをゼロからたちあげ、成果をあげていくには地域やキーパーソンの根性、熱意は不可欠なものだろう。そのことを否定はしない。しかし、まちづくりが根性や熱意だけで成り立つかといえば、そんな甘いものでもないはずなのである。

 

いまのまちづくりが直面する課題

 地域で活動する住民や商業者、事業者などが担い手となって、地域を活性化していく活動を自主的に展開していく。こうしたまちづくりはいまや市中の至るところで見かけることができるようになった。そして、各地ではまちづくりに関わる様々なサクセスストーリーも耳にすることができるようになり、多くの人々が関心をもつようになった。もはやまちづくりは何人かの熱心な人だけに委ねられた専門的、特別な活動ではなく、大衆化したものとして捉えられるべき段階に入ったといえるだろう。
 こうした状況のなかで、いまのまちづくりが直面する課題とはなにかを考えてみると、そろそろまちづくりも脱根性論へと舵を切る必要があるように思えるのだ。
 実際私も大阪市内外のいくつかのまちづくりに参加させてもらっているが、関係者の方々の情熱と昼夜を厭わない活動ぶりには頭が下がる。資金的にも苦しいので、財源を調達するために毎度のことながら四方八方をかけずり回る。苦しくて大変なのに、みなが熱心に活動を支えている。これらの方々の献身的な取り組みによって現状のまちづくりが成り立っているのは間違いがない。しかし、「この献身的なまちづくりが果たして持続可能か?」といわれれば首をかしげざるを得ないのだ。
 まちづくりには終わりがない。呼吸や食事、睡眠、趣味と同じでむしろ生活の一部と捉えるべきものだ。数年間は特別な状況でがんばれるとしても、これからずっと昼夜を厭わず、毎年資金繰りに頭を悩ませ、組織内の対立や軋轢に心を痛めつづけると思うと、そんなことに何の意味があるのかと考え直す人も少なくないだろう。いまのまちづくりは人生をそれに捧げるというよほどの覚悟がなければ安易に入り込めないハードルの高さがあり、そんな状態では、まちづくりは持続可能とはとてもいえないように思える。ある程度の人の輪はつくれても、それ以上に広がりを見せられない壁が見えてくる。そして、その苦難の道を乗り越えるのは、またしても精神力と根性しかないと結論づけられてしまうのである。

 

良好な地域循環をつくり出す合理的な仕組みとしてのまちづくり
   (アメリカのメインストリート・プログラムにみるまちづくり)

 いずれにせよ、大阪に限らずわが国のまちづくりは、まだまだ根性論の域を出ていないように思う。それは相当の覚悟がなければ迂闊に入ることができない禁断の領域なのだ。しかし、それではまちづくりが広がっていくことは覚束ないし、担い手の輪を広げていくことは容易ではない。スポーツの世界でも、かつて根性論が主流だった時代からスポーツ理論を取り入れた合理的なトレーニングへと移行していったように、まちづくりも合理的な組織論、マネジメント論への脱皮が必要な時期に来ているように思う。
 では、どのようにして脱まちづくり根性論を実現するかを考えるとき、参考になるものは、合理的思想の本場、アメリカのまちづくりだ。
 アメリカの地域まちづくりの多くは、メインストリート・プログラムという仕組みを使って展開されている。メインストリートといっても、商店街の活性化ということだけでもなく、住宅地のコミュニティ活性化、都心ビジネスの再生、スラム街の防犯・清掃活動など地域の抱えるテーマに対応して様々な内容のものがある。現在全米ではおよそ1900ものプログラム(団体)があるといわれ、近年もその数は増え続けている。このメインストリート・プログラムを調べていくと、見えてくるのは活動を持続可能なものにするという合理性だ。そのいくつかを紹介しよう。
 第一に、ある活動を展開するときに、誰が取り組むのが一番良いかというモチベーションの合理性だ。例えば、防犯・防災など身近な生活環境の防衛は、人に任せるよりも当事者が最も熱心に活動するのはいうまでもない。役所任せよりも地元住民がやるほうが、当然より質の高い取り組みができる。アメリカのまちづくりでは、役所に予算が十分に確保されていない背景もあるが、役所がやるよりも地元が取り組むほうがはるかに質の高い取り組みが持続されるという合理的な判断がある。
 第二に、活動の合理性だ。地域の課題を解決する、地域の活性化を目指すという意味において、日米のまちづくりにさほど違いはないように見える。しかし、アメリカのまちづくりで重視されるのは、質が高くて持続可能なまちを実現することに重きが置かれているところにある。例えば、商店街の活性化を例に考えてみよう。地元の商店主は大もうけしようとは思っていないが、自分たちがある程度の生活をしていけるだけの収益を確保したいと考えている。なじみのお客さんが買い物に来てくれ、お客さんも満足してくれる商品やサービスを提供し、その対価として適切な利益を得る。そのサイクルで商店街が成り立つ仕組みを目指している。
 この状態を持続可能なゴールとして、そのために必要なことに取り組んでいるのである。お客さんが来てくれる状況をつくるには、まちにそれなりの数の住民が住んでいることが必要で、そのためには住宅も供給していく必要がある。学校も維持される必要があり、そのためには生徒数が維持されるように地域に一定の住宅が提供される必要を理解している。決して商店街の活性化は大売出しや特売セール、アーケード整備などの小売りに関わることだけに関心をとどめておかない。
 肝心の商売のほうはどうか。お客さんに満足してもらうには、大手チェーンにもひけを取らない品揃え、魅力が必要だから、お客さんが何を求めているかを調査するマーケティングやお客さんが期待する店舗構成などを実現するために店舗リーシングにも取り組んでいる。地域への愛着を感じてもらい、価格以外の魅力をアピールするために、イベントやお祭りも積極的に実施している。地域の魅力を発信する広報活動にも熱心に取り組んでいる。主に地域住民で構成されるお客さんにまちの魅力を理解してもらう。そうでなければ、地域での商売が持続的に成り立つ循環のサイクルが断ち切れてしまうということを良く理解している。
 第三に、組織の合理性だ。持続可能な地域を維持することが活動の目的だから、そのために最善の体制をつくり、意思決定できる仕組みをつくる。プロに任せるべきは任せ、重要な意思決定はすべて透明性を高めた組織構成のなかで議論される。滅私奉公にならないように専任のスタッフも確保する。もちろん、参加には一定の人的、資金的負担も伴うが、それに見合うメリットを皆期待しているし、そのことに対する要求もシビアだ。決して奉仕的精神だけでは成り立っていない。また、そうでなければ参加してくれる人の数も増えていかないことをよく理解している。そうなってくると、会社経営に見られる組織マネジメント論とほとんど違いはない。日本でもすでに愛社精神至上主義で上司の命令は絶対という時代はとっくに終わっている。
 そして、第四が地域循環という視点の合理性だ。地域経済が疲弊していくなかで、地域での経済活動が今後も適切に維持されることがまちづくりには欠かせない。地域の経済が持続可能なものとなるには、地域で得た収益が地域に再投資され、それが地域の魅力づくりに役立っていくというサイクルを確立することに最大の注意を払う。よく地域の活性化で、BigBoxと呼ばれる大手チェーン店や、マンションなどの大規模住宅開発を誘致するアイデアが議論されるが、そのことだけでは地域の循環が成立しないことをよく理解している。例え一時的な開発で地域が潤ったとしても、地域で得た収益が本社所在地に吸い上げられられるだけでは、いずれ地域は干上がってしまう。だから、地域循環が成立する環境を維持するために、地域で経済活動を行う主体には一定の地域還元を当然求め、その財源をもとに再投資が実施されるような制度や仕組みを取り入れている。その代表例が、BID(Business Improvement District)というような地区指定の制度であり、全米各地での導入が進んでいる。

 

求められる「立ち上がってからのまちづくり」を支える仕組み

 以上のようなアメリカでのまちづくりの展開を見ていくと、わが国のまちづくりはまだまだ根性論の域を出ていないことに改めて気づく。確かに、まちづくりをどんどん立ち上げていくことは必要なことであるし、そのことは重要な意味をもつ。まちづくりを支える熱い思いや情熱が大事であることを否定はしない。しかし、各地で活発化するまちづくりが、合理的に持続可能な仕組みとして成立しうる環境整備が整っているか?ということを考えると、まだまだ途方にくれるしかないのが実状だ。持続可能な地域社会を構築するには、それなりの投資(人、金、情報)と制度構築が継続的に必要不可欠にも関わらず、こうした仕組みを構築する議論は行政側、住民側の双方ともにほとんど浸透していない。しかし、この根性論ではいずれすぐに限界が来てしまうのは目に見えている。
 そろそろわが国のまちづくりも根性論から脱出して、持続可能な地域社会の構築に向けた合理的な仕組みへと脱皮を遂げる時期に来ているのではないだろうか。そのために取り組むべきことは沢山ある。
  活動を持続可能なものにするための財源の確保、専任スタッフの育成、これらの仕組みを支える公益法人などの仕組み、組織運営など取り組むべきことは山積している。活動資金を確保するための補助金の充実に加え、エリアマネジメント広告事業、公開空地や公共空間の維持管理、イベント利用による事業収入といったアイデアも有力な手だてとなるが、同時に様々な規制緩和も必要になってくる。わが国のまちづくりも真剣ににこうした制度・仕組みを取り入れていかなければ、これ以上の発展は望めない。そんな段階に入ってきているように思えるのだ。

 

まちづくりコラムに関するご意見等はこちらまで
 
まちづくりトップページ
まちづくり活動支援
まちづくり啓発事業
まちづくりかわら版
まちづくりミニ情報
まちづくりコラム
まちづくりリンク集